セレクションは幸せにするために落とすのか?

昨日は、横浜桐蔭高校まで行ってきました。

なぜか?

息子が桐蔭のサッカー部に入りたいから、そのための練習会に参加するためです。

東名の横浜青葉から降りて10分くらいで着いたので、混んでいなければ小田原から1時間ちょっとで着く距離でした。

16時に受付開始で、続々とサッカー少年たちが集まってきました。

そもそも、セレクションとは落とすためにあるものなのか、それとも優秀な人材を取るためにあるものなのか?

もし、そなら、優秀とはどんな意味があるのでしょうか?

短時間で、その子供の能力を評価することができるのでしょうか?

ちなみに、息子はどうだったかというと親の俺が見ても、全然目立っていなかったし

アピールもしていなかったです。

桐蔭のサッカー部のコーチ陣からしてもとても戦力になるとは思わないと思いますよ。

なので、桐蔭サッカー部からみては優秀ではないと判断されたのでしょうね。

じゃあこの優秀というのはどういう意味を持つのでしょうか?

学校の立場からすると、桐蔭サッカー部は関東リーグ1部でJリーグの下部組織と試合をするくらいの実力があるチームです。

なので、桐蔭の優秀の定義は【すぐに戦える能力を持った選手】と定義されるのでは

と俺は仮定します。

その意味で、まだまだ成長期の真っ只中にいる息子は優秀ではないのでしょう。

逆を言えば、伸び代がまだまだあるという意味もあります。

なので、俺の中では息子にとって桐蔭のコーチ陣は幸せになるための

選択のためのセレクションだったんじゃないかと思います。

つまり、将来の選択肢の中からサッカー=本業にするなよ

ということです。

だから、勉強を頑張って高校に入って、部活でもサッカーができるし

俺もそうだったけど、県立でも私立と戦って、倒すというストーリーも

面白いんじゃないかなと。

ただ、息子自身が諦めが付かなければ、来月もまたセレクションがあるから

それを受ければいいと思う。

セレクションというものは、その子の一部分を判断するということで

全体の価値の判断はできないということです。

これは勉強で推薦をもらった子供もある一面で、その子全体の価値は誰も判断できないのではないでしょうか?

そもそも、その人の価値とは誰が判断するのでしょうか?

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