昨日は、超久しぶりに母校に行ってきました。
なぜ行ったのかというと、息子が高校のサッカー部の練習に参加していたため
迎えに行ったからです。
自分の中ではついこの前の様な感じがするんですが、もう30年も前になってしまっているんですよね。
時が経つのは早いです。
通学は自転車で行っていたので、車で行くとなんとも違和感がありますが
あの最後の坂は今でも健在です。
学校の敷地に入ると、なんとも懐かしい。
この懐かしさは何からきているのでしょうか?
学校の匂いはあまり感じなかったので校舎や校庭やプールという建物から感じたのでしょうかね。
校舎は記憶を呼び覚ますものなのでしょうか?
そもそも、後者とはなんなのでしょうか?
生徒を閉じ込めて置く場所なのか、教員の力の見せ場なのか
それともタイムマシーンなのでしょうか?
高校の時の3年間というのが30年経った今でも鮮明に思い出せるのは
強烈なバレー部での経験があったからなのかもしれません。
当時は今では考えられないくらいハードな練習をしていましたからね。
その中でもちょうど、今くらいの時期に行う夏合宿。
それもただの夏合宿じゃありません。
地獄の夏合宿だったんです。
なぜなら夜の練習が19時から始まって終わるのが翌朝4時。
そして6時から朝練のランニングがありそれが3泊4日あったからです。
夜練は脱水になり救急車が1日で3回きたりということがありました。
だから、30年経った今でもその時のきつさを上回る出来事はないですよ。
そう考えると、常識というのは人生に制限をかけてしまう悪なものなのではないかと
思えます。
だから常識人というのは自分の人生の可能性や経験を全うできないものなのではないでしょうか。
つまり、常識とは一度きりの人生を棒に振る要素なのだと。
あの時、非常識な合宿があったからこそ自分のキャパシティーが格段に上がったと思います。
今の時代は監視社会になっていて親も子供達に何かあってはならないという考えが多いです。
だから小学校の遊具はことごとく撤去。
怪我をしたら危ないからだということです。
俺の母校の小学校もジャングルジムはスズランテープでぐるぐる巻き、登り棒は撤去。
子供の大切な人生を奪っているのは過保護な親なのかもしれません。
行き過ぎた安全管理は子供のたった一度しかない人生の可能性を制限しているのではないでしょうか?
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