前にも話しましたが最近、ダグラス・ホフスタッターの本を読んでいる。
『ゲーデル、エッシャー、バッハ』に出てくる、アキレスと亀の対話だ。
正直、一回読んだだけでは分からないところも多い。
でも最近、この本を読んでいるうちに、自分の中で少し変化が起きているような気がしている。
毎月くるニュースレターのマーケティングのレポートを読んでいても、以前とは読み方が違う。
例えば、
「いつも見かける人物や企業は、“お馴染み感”によって信頼を獲得しやすい」
という文章を読んだんですけど。
以前なら、
「なるほど。接触回数を増やすことが大切なのか」
と、そのまま読み進めていたかもしれない。
でも昨日は今回は違ったんですよね。
「本当に?」
という言葉が勝手に頭に浮かんだ。
いつもテレビで見る政治家だからといって、信頼されるとは限らない。
むしろ、何度も見ることで不信感が強くなることだってある。
だとすると、「お馴染み感 → 信頼」
ではない。
「他にも何か条件があるんじゃないか?」
そんな問いが自然に浮かんできた。
文章を読んでいるのに、著者と対話しているような感覚だった。
そして不思議なことに、その方が文章が頭に残る。
「俺は少し成長したのかもしれない」
そう思った。
でも、ここでまた疑問が出てきた。
成長って何だ?
知識が増えること?
考えられることが増えること?
以前には作れなかった問いを作れるようになること?
うまく説明できない。
そこで、さらに妙なことを考えた。
もしかしたら、俺は成長しているんじゃなくて、退化している可能性もあるんじゃないか?
ホフスタッターを読む前なら、もっと簡単に答えを出せた。
ところが今は、
「本当に?」
「例外は?」
「その前提は?」
「逆だったら?」
「そもそも、この問い方でいいのか?」
と考えてしまう。
以前より答えを出すのが遅くなったのだとしたら、それは「退化」と呼べるのかもしれない。
ところが、ここでさらに面白い問いが生まれた。
退化する能力も、成長の一部なのではないか?
この問いには、自分でも少し驚いた。
僕たちは普通、
成長=増えること
退化=減ること
と考えている。
でも、本当にそうなのだろうか。
子どもは成長する過程で、子どもの頃にしかできなかったことを失っていく。
熟練者は、初心者の頃のように一つ一つの動作を意識する必要がなくなる。
知識が増えれば増えるほど、
「絶対こうだ」
と簡単に言えなくなることもある。
つまり、
何かを失うことによって、初めてできるようになることがある。
だとすると、成長とは能力を足していくことだけではない。
必要なくなった能力を失うことも、成長なのかもしれない。
そう考えた瞬間、「成長」と「退化」が正反対のものではなくなった。
そして、さらに一つの問いが生まれた。
「学ぶ」とは、何かを身につけることではなく、何かを“できなくなること”なのではないか?
哲学を学ぶことで、簡単に答えを出せなくなる。
人の意見をそのまま受け取れなくなる。
自分の常識を絶対だと思えなくなる。
「正しい/間違っている」だけで世界を切れなくなる。
だとしたら、それは能力を失っている。
でも、その「できなくなること」によって、
今まで見えなかった世界が見えるようになるのだとしたら?
俺はずっと、
「新しい視点を持てる人間になりたい」
と思っていた。
最近、その意味が少しだけ変わってきた。
新しい視点とは、奇抜なことを考えることではない。
「え? そんなところから世界を見るの?」
と思わせる場所に、自分の観察地点を移動することなのかもしれない。
そして、そのためには新しい知識を増やすだけでは足りない。
今まで当然だと思っていた見方を、時には失わなければならない。
だから今は、こういう問いを持っている。
人は学ぶことで、何をできなくなるのだろう?
答えは、まだないし、一生出ないかもしれない。
でも以前の俺なら、この問いそのものが生まれなかった。
もしかすると
それこそが、今の俺に起きている「成長」なのかもしれない。

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